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ネットアングラ文化圏における反個人主義

 

 

ハマータウンの野郎ども (ちくま学芸文庫)

ハマータウンの野郎ども (ちくま学芸文庫)

 

 

わたしが個人主義に否定的である層を発見したのは、ハマータウンの野郎どもを読んだときである。

わたしはそこで気がついた。

個人主義とは、学校から与えられたものであり、そしてそれに反発するものたちが

いることに。

そして、この反発精神は日本ではあまり聞かないカウンターカルチャーと呼べるものだ。

 

この本はイギリスの学校文化を舞台としているが、当然日本でもこのような不良文化を担う層は出現している。

(わたしはこの本から影響を受けた日本著者の本は読んでいないが、日本からもこういった本が出ている様子)

 

さて、本題のネットのアングラ文化圏における反個人主義だが、ここでは色々な文化を作り出している、そのなかでもネットのアングラ文化圏における名前を隠す文化が、反個人主義思想に依っているということを記述したい。

 

当然、名前を隠すのは彼らがグレー、または違法なことをやっているから名前を隠すというものだが、その文化を引き継いでいる、派生した文化もまた名前を隠し続けているのは合理的な理由が必要である。それが今回の記述になる。

(主に2ちゃんねるがターゲットであるが、このネットのアングラ文化に影響している、日本のWebサイトは多岐にわたるため、出来る限り抽象的に書く。)

 

ちなみに、この文章を書くきっかけは以下のホッテントリしたサイトを読んだことだ。

mubou.seesaa.net

この上記のサイト内の"web理想主義"はまさにネットのアングラ圏から影響を受けた思想である。これはネット上のアングラサイトによる反発精神による思想なので、最後に列挙している理想同士が衝突していることを発見したのも、サイトの文章のおかげで発見したのである。

日本のweb理想が反発精神に依っているのを見つけられたのも、上記のWebサイトの記述によって発見できた。

 

では、まずネットアングラ文化圏における2ちゃんねるの歴史を一行で書きたい。

あやしいわーるどあめぞうのサイト→2ちゃんねる

以上である。

 

あやしいわーるどについては、wikipediaが詳しい。

あやしいわーるど - Wikipedia

これより前の文化も当然あったと思われるが、これ以前についての情報があまりないのでわたしには分からない。

 

wikipediaを見れば、あやしいわーるどというサイトの紹介にアングラという単語がついている時点で、もう不適切なサイトであることが一目瞭然であろう。

こういったサイトではハンドルネームと呼ばれる仮名制を導入している。

 

そして、あめぞうのサイト

これが2ちゃんねるの前身である。

あめぞう - Wikipedia

ここでは2ちゃんねるが誕生したきっかけでもあるし、同質の存在がそのまま移行していると考えられる。

2ちゃんねる - Wikipedia

「名無し」のシステムは、あめぞうより引き継いだものである。

2ちゃんねるは現在も続いている、日本最大の匿名サイトだ。

00年代の日本web理想を語るサイトとなり、幻滅させられたサイトである。

00年代のweb理想論、00年台後期の幻滅した者たちによる文章をまとめられないが

ほぼ2ちゃんねるの匿名思想には言及しているだろう。

 

わたしは幻滅したものの文章を読んでいないし、エリート主義者の文章は読まないので

読んでいないが、webの理想に幻滅した本は以下にあげる。

ウェブはバカと暇人のもの (光文社新書)

ウェブはバカと暇人のもの (光文社新書)

 

 

 ここから派生したブログの内容なども多いので、すべて読むのは大変である。

 

タイトルは2ちゃんねるに限定しているが、日本の理想なweb世界を語る本

2ちゃんねる宣言―挑発するメディア (文春文庫PLUS)

2ちゃんねる宣言―挑発するメディア (文春文庫PLUS)

 

 

ここまでアングラサイトから、日本の匿名システム、ひいてはwebの理想が匿名文化から来ていることを記述した。

 

次に、集団の生成理由、集団の特徴を書いていきたい。

 

アングラサイトとは、正規から離れた不正ユーザーや、様々な悪質さを持ったものたちのたまり場だった。

そんな無法者達だが、当然ながら仲間意識を持っていた。

当然といったのは、彼らの不遜な態度では、規則や集団を維持するための目的とするルールは最初は作れないのだから、仲間意識によって集団を生成するしかないので当然という意味である。彼らは、ある特定の共通項をもち、それを用いて集団の維持、形成を行うしかあり得なかった。

 

アングラサイトに集まる彼らの共通項とはなんだろうか?

それは色々あると思われるが、社会から受け入れられられなかった事による敵対心、社会に対する反発心、それによる自由を目指すという共通項だろう。

そういった事で集団を形成するのは何もアングラサイトだけではないことを明記する。

 

ハマータウンの野郎ども という本では彼らは、学校から与えられた個人主義が都合のいい思想だと感じ、反発する。

実際に学校は個人主義を用いることによってジレンマに陥っている。

例えば、仲間は大事だと説きながら、個人に力がなければ。緊急時には助けてくれないぞなどと脅す。

集団の維持には全体主義的なロジックを使う必要があるが、学校に都合の悪い集団ができると個人主義的なロジックを用いる。つまり学校の都合のいい集団の維持するためだけに用いるロジックなのだ。

それが彼らの都合の良さと言えるだろう。

さらにハマータウンの野郎どもには以下の記述がある。

反学校の文化には、いわば個人原理と集団原理との相違に関する洞察が含まれている。さらに、現代の公教育がこの二つの異なる論理をことさら混用していることをも見抜いている。

ここでも洞察は十分な自覚性を欠いているかもしれないし、あれこれの言動やその意図には洞察からのずれも含まれていよう

だがたとえそうであっても、学校制度に対する少年たちの洞察の核心は、階級や集団の利害が個人の利害とは異なるということを見透かしているところにある。

反学校集団の共通認識はこの核心から生じている。

労働階級の出身であっても、個々の生徒にとっては社会的階層移動の可能性が、なにほどかはおのれを賭けるに値する場合がある。

実際にいくばくかの生徒は「出世する」し、それにつづこうと期待をかける者もいるだろう。しかし、階級や集団の全体が社会的階層移動をとげるなどということがあるなら、それは階級社会そのものの破壊でなければならない。

ハマータウンの野郎ども (p312)

 

こうしたすべてのことが、個人主義的な論理を集団、階級レベルの論理にまで拡張することの無理を、はしたなくも露呈しているのである。

ハマータウンの野郎ども (p314)

 

こういった反発は、日本でも起きており、それが日本のネットアングラ文化に入り込んでいるのではないだろうか。

 

この個人主義に対する反発を、反個人主義と呼びたい。

通常、個人主義の対義語は全体主義となっているが、彼らは個人主義を否定(または反発)しているだけであり、全体主義者でも無いのである。

しかし可能な限り個人主義的なものに対して、反発していけば全体主義的なものが出現するのは自明である。

彼らは全体主義も良しとはしていないので、それらは極端なものとして否定される。

反発した結果の自明であるはずの結論に達した所で否定されるのであり、この結果を予測できた人は、矛盾に陥り、精神的なショックは相当なものである。

 

この反個人主義が生み出したと考えられるのが、2ちゃんねるなどの匿名サイトになる。

彼らは反個人主義思想によって集まったわけではないが、その系譜を引き継いでいるのである。

つまり、彼らが現在も名前を隠し続けているのは、学校、社会から与えられる個人主義に対する反発であり、個人主義に対する敵意なのである。

 

ここでで注意が必要なのは、ネットのアングラ文化圏にいる2ちゃんねるは有名になり、

その文化に対する反発がもうかなり前から起きているということである。

例えば、反体制、反社会的ということを全面に出すことは2ちゃんねるの彼らは嫌っている。

それは、ネットのアングラ文化圏に従順である、その従順さが嫌われる理由である。

従順さの否定が、一部から称賛される理由は、その従順さが、体制に対する従順さと同列に容易に見て取れるからだ。

つまり、その中でのみ反個人主義的である彼らは、反個人主義に従順であるというのみに限って、反個人主義を批判できるのである。

 

思想に関して言えば、「誰が言ったではなく、中身をみよう」という思想がある。

これは反個人主義的であるといえる。

なぜなら、個人に関係なく、内容だけを称賛しようという話なのだから。

 

ここで、彼らは自分の名前を持つこと、個人主義を否定するのも強制していないという発言が出ると思われる。

しかし彼らは、特に全員が共通のルールをもって行動することがありえないから、強制しないだけで、何か条件をつければ(例えば、全体レベルではなく、個人レベルの恐喝、説得など)強制にしたいと考えている。

つまり、彼らは基本的なシステムには従い、そのシステムから逸脱することはない。

彼らは匿名システムをやめる気はないし、変える気もない。

これは彼らの自治能力の崩壊にも繋がっている。

初期の2ちゃんねるでは各板のルールなどを決めることができた。

現在の2ちゃんねるの殆どの板では、その板の住人同士が話し合って、板の方針を決めることがほとんどどできていないのである。

 

日本のネットにある理想が、こうしたアングラサイトによって生み出された理想であることは極めて危険に思う。

 

反発だけでしかないので、確固とした思想基盤を作ることが出来ず。

相対主義者を大量に生み出してしまった。

従順さのみを否定する際の節操のなさを見よ。

個人主義に反発しただけなので、全体主義に陥る覚悟も得ることは出来ない。

個人主義の再構築、全体主義の再構築も当然出来ず、何の発展性も無いのだ。

 

わたしは、この2ちゃんねる各種のネットのアングラ文化圏を抜け新しい思想を元に、理想のweb、インターネットを追っていくことが重要だと思う。

死という絶対性について

 

他者の記号学 〈新装版〉: アメリカ大陸の征服 (叢書・ウニベルシタス)

他者の記号学 〈新装版〉: アメリカ大陸の征服 (叢書・ウニベルシタス)

 

 

人は死という絶対生をいかに乗り越えたか

私たちは絶対生を前にすると思考することが出来なくなる。

明らかに絶対性は私達に害をなすだろう。

 

死は人類に共通なものであり、私たちは死に服従するしか無いのだろう。

その絶対性は組織を強固にするために使われる。

(これは死という絶対生に限らない。)

その絶対性を使用することで、組織もまた絶対的なモノになる。

 

私たちは、この絶対性からどのようにして抜け出すことが出来たか。

まずは心霊的なモノを私たちは使っている。

魂は不変なものであり、死は絶対的なものではなくなった。

これにより、死の絶対性と魂の絶対性を私たちは手に入れ、相対性を手に入れることができた。

しかし現状は魂は科学によってオカルトなモノとなり、魂は絶対的なモノではなくなった。

私たちは、この科学の時代において、魂とは別の絶対性を欲していた。

その一つは、再生産という概念である。

再生産により同一な属性を持った人たちは、死んだとしても、新たな同一属性をもった人間が生まれるということにある。

これは死者が生き返ることを意味している。

 

私たちは、ある属性を持った人間が、一定の範囲で再生産されることを知った。

しかしそれは、今の生きている人たち対しては、効力を発揮することは無い。

今の現在に生きている人たちには、死という絶対性は何も変わらずに向けられているのだ。

私達が生きている現在の世界では、死という絶対性を回避するすべはない。

 

社会のそれ自体が死という絶対性を使い、組織を絶対的なものにすることもあったが

現在は認められていない。

これによって、社会は再生産という絶対性があるゆえに相対的になり、

個人は死という絶対性から避けられず絶対的なモノとなった。

では、相対的な社会はどうのようにして組織を絶対的なものにするか。

個人が死という絶対性を持つのであれば、その個人の絶対性を社会が使えばよいというのだ。

それは個人が死という絶対性を持たないようになれば社会が崩壊することを意味している。

 

個人は社会にとって、ただ使用されるだけの道具にすぎない。

社会は個人によって成り立っているというのは、個人の集合を社会という単純なラベル付をしたものである。

ただ個人を大勢集めれば、社会が成り立つわけではない。

集団の安定には何が必要か、それは人自身ではない。

人の集合は人によって安定するなどということは誰も信じていない。

直接的か、間接的かのどちらかの、人とは別の何かによって集団、社会は安定している。

 

しかし、個人レベルで死という絶対性が無視される、思想や方法はいくつかあるのだ。

思想で言えば、輪廻思想や死という将来を考えないという意味で刹那主義などである。

思想レベルで言えば、私たちはある考えにこだわる無力さを知っており。

死という絶対性が無視されるまでにはいかないだろう。

 

現実味があるのは方法としての死という絶対性の回避である。

1つ目は、人間のち知性を持った人工知能、これは人間の永遠の生を象徴するだろう。

2つ目は、集合知である。

もし、個人という属性を持たずに、人間性を一つの個体として、その集合が一つに人間になるのであれば、その集合知は死ぬことはないだろう。

現時点で匿名性を使ったシステムはこれに近いが、どうしても彼らは個人であるということ主張してしまうし、その集団を維持するのはまた別の何かが必要だろう。

 

3つ目は、現実認識からの刹那思想の増大である。

人が簡単に死ぬ、人が未来に希望が持てないなどの現実を認識することによって

刹那主義者が増える。

人は思想の力による変革を信じてはいないが、現実を合理化する際や、保守の場合には思想を頼る。

個人は死を恐れることはなくなり、社会はまた別の絶対性を確保しなくてはいけないだろう。

 

これらのケースとして、あってはいけないのが3つ目である。

私は1つ目はありえないと思うが、2つ目による社会の変革を望む。

なぜなら現状は、社会が個人の死に頼る、不誠実な社会だ。

(維持しようとする人は、これに気がついていないか、無視している。)

社会が個人の死を利用しているということは、常に考えねばならない。

 

インターネットは進歩的か

私たちはインターネットによって差異を減らされている。

インターネットは知性を拡大できただろうか?

インターネットの役割は知を保存すること、知を拡大することにある。

知の保存とは、知の固定化、いわば知の神格化、保守思想である。

知の拡大とは、同じ知を持つ人間を作り出す。知による人間の同質化である。

私たちはインターネットを進歩的なものと見なしてきたが、実際には現在に見られるインターネットの本質は極めて保守的なものである。

 

なぜ私たちは、インターネットを進歩的なものと見なしてきたか

それは、私たちが技術の発展を、人類の発展と同一視し、技術の発展をインターネットの発展と同一視したときに生じたものである。

この件に関して、色々と主張出来ると思われるが、簡単に言えば技術とは、人が使うツールに過ぎず、技術の発展は人類の発展に必ず結びつくわけではない。

(インターネットは全てが技術的な要素で出来ているわけではなく、科学的な成果で出来ている部分も持っている。)

 

CPUやディスプレイ、更に発展して、インターネットケーブル、サーバーなど

こういった技術を使いながら、私たちはインターネットという概念を作り出した。

つまり、インターネットとは人が技術を使い、作り出したある概念なのだ。

ここで言えるのは、科学は現に私たちが生きている不変性の上に建てられたものだが、

インターネットに関する技術などは、私たちが生きている不変性の上に建っていない。

(人間が忘れたとしても、科学的事実は私たちの目前で観察することができる。)

これは、なぜ人工物は完全に分解・分析することが出来ないかということにつながっている。

それは、人工物を作る人間自身が変更可能性が十分にあるからである。

 

インターネットは人工物である。これは誰が見ても同意できる。

そして人工物には思想が宿る、それは私たちがなぜそれを作ったか、またはどういった性質を持つのかを決定しているということなのだ。

私は現在のインターネットという人工物には、保守思想が宿っていることを発見した。

 

インターネットは使い方によっては進歩的になり得るが、現在の私たちが進歩的だと錯覚している、知の保存、知の拡大というのは勘違いだということと、インターネットにはそれらの基本的概念が備わっている(または備わっているべきだ)という勘違いも正す必要がある。

インターネットが基本的に規制を免れているのは、規制とは国を守る保守的な行為であり、それがインターネットの保守思想と同じライン上に存在しているからである。

(もし、インターネットの完全規制を叫ぶのであれば、それは進歩的な人だろう)

 

では、インターネットを革新的に使うにはどうすれば良いだろうか

 

1 知の保存、知の拡大をやめる

私たちは知の保存をしたくないし、知の拡大もしたくない

 

2 インターネットの発展は人類の発展ではないということを認識する。

必ずしも結びつかないということだが、必ずしもという言葉の汚さは認める。

 

3 インターネットを完全に規制する。

これはかなり実践的な案だ。

もし、知の保存だけは残すなどという人には同意してはならない。

私たちは、私たちの手によってインターネットを封じることによって、一歩進むことが出来る。

 

しかし、私たちが真に直面しているのは、

保守的な思想を進歩的概念だと、人に欺きながら与えることだろう。(逆もしかりだが)

ここの問題だけを解消できれば、保守派も革新派も仲良く前に進むことが出来るというものだ。

極端であること

何を極端であると私たちは判断するだろうか?

有るものにマイナス点を見つけた場合に、それを捨てることをは極端である。

なぜなら、そのマイナス点は修正出来る可能性を十分に有るからである。

私たちは、この世の全ては、可変であり、また相対的であることを疑っていない。

そうであるからこそ、何か問題があっても相手側を変更(可変)するか、自分側を変更(相対)するかの二択の問題に追い込まれる。

(ここで、相手側を変えるとうことは、修正するということであり、廃棄するという意味ではない。)

 

この二択以外を選ぶということは、何か絶対的なモノの信仰者であり、その進行を暴いた時、異常なものとして認識される。

通常時であれば、暴かれることはなく、ただの極端者として認識される。

(信仰と書いたが、宗教との関連性はここでは触れない。宗教が必ずしも、絶対的なものを信仰するとは限らない。)

 

全ては、可変であり、相対的であることは、現存の社会システムの安定に繋がる。

一から社会を作り直すのは手間がかかりすぎる。

そうであれば、私たちは、ありとあらゆる考え、物質、果ては人間のアイデンティティまで、いつでも変更可能であることが望ましく、また求められる。

そういった状況で、変更可能的ではない、人、モノたちはどうすれば良いだろうか?

 

モノは徹底的に分析され細分化される。

そして、何が変更不可能であることを決定しているか調べる。

それは技術発展の方向性を見れば、確認できる。

私たちは、鉄から金を作り出すことには成功しなかったが、鉄の形や、硬さなど、ある一定の変化をさせることに成功した。

 

このことは人間の持つ絶対性が一つなくなったことを意味する。

今や技術発展によって、この地球上では行けない場所はない。

移動手段で見れば、自転車、車、電車など、人間の短距離の移動の絶対性は無くなっている。(長距離での移動にはまだ困難がある。)

 

人であっても、例えば東京から大阪に行くなど、車、電車が無い時代であれば、短時間では、絶対に不可能だと言うだろう。

しかし、今や、その絶対性を持つ人間は居なくなったといえる。

 

もし、その次代に長距離の移動をしなければならないなら、身近な所に

一から作ることを求めるだろう。

私達にとって絶対性は、ある種の創造性をもたらすことになる。

社会が絶対的なものであれば、人はいちから社会を作ることになるだろう。

 

しかしそれは、あらゆる面で不幸を呼ぶことになる。

まず社会とは、人の集合である。その集合は、代替の社会が出来てしまえば廃棄されてしまう可能性が出てくるだろう。

それを防ごうと争いが起きることは間違いない。

そうなれば、何もしない状態よりも状況が悪くなったように感じるだろう。

そうなることを防ぐため、私たちは、社会から絶対性を減らすことにしたのだ。

私たちは、絶対性をほとんどなくした。

 

近代の問題点は、全て一行の矛盾で言い表せると思う。

「絶対性を持つことが不可能なことの絶対性である。」

混乱を避けるためにも、上記のことは、絶対性Xと呼ぶ。

 

私たちは、極端であることを恐れているということは、絶対的なものを恐れているということである。

しかしながらも、絶対的なものに対する尊敬や、憧れも抱いている。

例えば、人は何も絶対性を持たないものを価値の低いものとして評価する。

そういった、尊敬やあこがれがある為、人は絶対的なものを模倣する。

逆に、絶対的なものに対して、恐れがある場合は、人は絶対的なものに対して祈祷する。

 

主に混乱が生じるのは模倣の方である。

人は絶対的なものを見分けるのに難儀するだろう。

第二の絶対者がモノであれ、人であれ、模倣元を信仰する者と、模倣先を信仰する者で、争いが発生する可能性が高い。

現在の私たちは、争うことを悪としている。

この場合には、何も信仰していない人たちは、第二の絶対者を批判することになる。

 

その為、現在では、模倣という行為は潜在的にも、禁忌とされている。

(模倣という行為にあまりいいイメージは無い)

 

ここで言葉を等価で結ぼうと思う。

「極端であるということは、絶対的である」というこである。

それは、極端であるということは、唯一無二であり、変更不可能性を持っており、私達を争いに誘うことなのだ。

(その極端さが、私たちに根本的な恐れを抱かさせる場合は、私たちは、その極端さを、内的に閉じ込めようとするだろう。)

 

ここまで、私は、私たちはなぜ極端に怯えるかということを、思考してみた。

次は極端であることのメリットを考えねばなるまい。

 

私たちは明らかに、第一の極端さに、身を委ねている。

その極端さとは、絶対性Xのことである。

この極端さは、私たちに計り知れないほどに利点を与えた。

まず、争いは突発的でなければ基本的に避けられる。

私たちは平和になった。

そしてこの安定は、技術発展に貢献した。

なぜなら、この絶対性は物事を見るときの、安定した視座になるからだ。

その視座は、他の絶対性を内包する絶対性であり、他の絶対性を分析することを可能にした。

それは、相対的に見ることを可能にしたのだ。

もし、絶対性を内包できなければ、絶対性と絶対性を比較するなど不可能であろう。

 

しかし、この絶対性Xに利点があるとすれば、他の絶対性にも同質の利点を含んでいるのは当たり前だと考えた。(絶対性Xが別物であれば、絶対性を内包するのは不可能だ。)

つまり、この絶対性Xと同等の利点を持っている極端さを、容易に捨てることは愚かではないだろうか。

絶対性Xが持つ極端さは、絶対性が持つ極端さを超えたものであるというのは、間違っている。

この絶対性を内包できるということは、簡単に言えば絶対性がなければ、この絶対性Xもなくなることを意味している。

新たに出現した絶対性を、この絶対性Xは内包できる。つまり、新たな絶対性ができることによって絶対性Xは進化できるのだ。

この絶対性Xは、新たな絶対性が出現しなくなれば、人はこの絶対性Xに信仰するようになる。

その絶対性Xは、新たな絶対性が生まれなければ、発展することは無いにもかかわらずに、私たちは他の絶対性を持つことをやめる。または、新たに絶対性が発生しないように努めてしまう。

 

もちろん、絶対性Xによる安定した視座によって新たな絶対性が生まれることは十分にありえるだろう。しかし、その絶対性に対して、信仰するものがおらず、すぐ廃棄されるようならば、絶対性Xは新たな絶対性を内包することができず、発展は望めない。

 

それゆえ、絶対性Xは信仰したものが、発展性のなさに絶望し、新たな絶対性へ置き換えてしまうのだ。

 

 

そろそろ解決方法を考えたいと思う。

私たちは絶対性Xをいかに持ち続けることが出来るか?

 

1 絶対性X自体を信仰するのをやめる。

当然ながら、絶対性X自身は何者でもない。

これを維持しようとするのは、絶対性Xを殺すことである。

 

2 新たな絶対性を増やす。

絶対性を増やすことは、争いを生む。

私は犠牲になるかもしれない。しかし、そこに自由がある。

争いが生まれるからと言って、絶対性Xの管理下に、絶対性を増やしたとしてもその絶対性は、絶対性Xに既に内包されているのであまり意味を持たない。

しかし、絶対性Xによってある程度は線を引くことが出来るかもしれない。

絶対性による、他の絶対性の駆逐は絶対性Xにとって、内包できる絶対性が減るので良いことではない。

 

3 絶対性Xを発展させる。

絶対性の良し悪しは、私達の判断に委ねられた。

私たちは、絶対性Xによって、絶対性をさらに発展できる。

それは、私達がどんな未来を望むことが出来るかの選択肢を増やせることにも繋がっている。

 終わり

 

しかし、この"絶対性を持たないの集合"自身には”絶対性をもたないこと”自身は含まない。

逆も言える、絶対性の集合はそれ自身は、絶対性ではない。

 

ストップ more 間欠泉

 

 

消極的〇〇の消極的に指向性をもたせることは可能か

 

〇〇に対する態度が消極的であることは私達の判断をある程度には保留し、なおかつ〇〇を現状維持せよと私達に要求できる便利な言葉である。

 

この言葉の面白い所は、現状維持でありながら保守的であることを意味しない。

なぜなら現状維持より、優れた何かがあるのであれば、現状維持をやめることを

含蓄しているからだ。

 

しかし指向性を持っているとはいいがたい

発展的な指向性とは、現状維持から優れたものを探し出す行為も含める。

その意味では、消極的とは現状より優れたものを探す事自体に消極的であり

しかしながら、受け身でありつつも、態度を変えることにやぶさかではないという

複雑な態度である。

 

この言葉は便利な言葉である。

便利であるというのは不誠実性を伴うことが多い。

(これは演繹を行うことによって道徳性失ってしまうことに近いものがある。)

今回の事で言えば、消極的〇〇という言葉はただの優柔不断であることを

知的な表現にしたものに過ぎず、しかし言葉を変えたことによって優柔不断であることを自覚せずにこの言葉を使えてしまうところが問題なのである。

 

そこで私は消極性という言葉に指向性があることを明らかにし、消極的〇〇といったときに生じる優柔不断なところを改めたいと思う。

(自身が優柔不断であることを自覚していない点は、本当はその言葉は優柔不断の意思表明であるのだと相手の自覚させるのは人が行うには傲慢すぎるだろう)

 

 

消極性であるということは、主体性を持ち得るか考えたい。

判断を行うのは自己になるのは間違いない。

そこでの価値判断は現状維持が大半を占めることになるだろう。

もし現状より素晴らしいとほとんどの人が言うならば意見を変えるに違いない

しかし、そもそもそうなることはほとんど不可能であり、確実な保守性を持っていると言える。

(どんな意見にも懐疑を発生させないなどほとんど不可能だろう)

 

本来は積極性を持たなければ集団を作ることは叶わない。

消極的であることとは、自己で完結することを意味する。

積極的であることとは、外部に影響を与えることを意味する。

 

つまるところ、消極的であることとは場を提供されており

その場がなければ現状維持を可能とする、集団を集めることも叶わない。

積極的な論理で人を集めた後は、消極的な論理に切り替えれば

完全なる保守性を持った集団を容易に作ることを可能とする。

 

 

そもそも保守であることであったとしても、現状維持をやめる時は来るはずである。

保守的であること、消極的であることの違いはよくわからない。

議論もしないという言葉について

ネット上では人を動かそうとあらゆる言葉を選択している

言葉によって人を動かそうとすることによる異議については別に考えたいが

今回は議論をしない事自体を問題視する言説についてだ

 

この言葉が使用される場面というのは、色んな意見があることを承知してはいる。

しかしその意見を議論させる必要性を示したい場合に使われることが多い

 

その色んな意見というのは、否定意見が優勢である場面に多い

 

私がこの言葉にすこし苛立つのは2点ある

1点目は否定が優勢の場面で議論したとして、議論によって私たちは生産的であるように規定されはしないかということにある。

生産的とはどういうことか、それは私たちは議論によってある結論をだすことが求められる、という無意識的な規定である。

 

もし、議論によって結論を出せなければ、それは議論の失敗を意味する。議論になっていないと言えることができてしまう。

私は議論の意義は認める、しかし議論によって結論を出せないことが議論の失敗(=議論をしていない)を意味してしまう現状では、議論をしていないことを攻めるのは少し卑怯ではないかと思うのだ。

議論を生産的なものだと感じているから、議論すること自体に意味をあるように考えてしまうし、議論しないことを非生産的だと考えてしまう。

私はその無意識的な規定を許すことが出来ない。

 

2点目は、議論をあまりにも信頼しすぎていることだ

議論に関する問題点はこの本が面白かった。

 

熟議が壊れるとき: 民主政と憲法解釈の統治理論

熟議が壊れるとき: 民主政と憲法解釈の統治理論

 

 

この本では人々が議論する際には、極化と脱極化という現象が起きるということが書いてある。

極化とは議論によって最初はその意見に肯定的ではなく、中立であった人も

その意見が優勢であれば肯定的に考えてしまう現象である。

脱極化は、肯定的を持っている人達のグループに否定的意見を持つ人たちが加わると

結論としての肯定的な意見が少し否定的になるという現象である。

 

議論という行為の危険性は多く、その危険性を意識していなければ

議論を操られる可能性だってあるのだ。

議論によって物事が全て上手くいくという楽観的な、しかし

それでいて脅迫的な議論の勧めを、私はよく思わない。

 

そもそも、議論を進めるまでもなく

意見を書くことは自由であり、その意見を議論するというのが自然流れではないだろうか、議論すること自体を目的にするのではないのだ。

 

これはあの有名な、手段を目的にするな、ということだろう。

 

いつか手段と目的についての内容でも記事を書いてみたい。

分析主義者の驕り

分析主義と防衛機制

 

私たちには今や当然と思われるように、人間の理性には防衛機制なるものが存在している。

例をあげると、合理化、これは私達が手に入らないものを、あれは良くない物と、対象の価値を下げるために人間は自動的に行う。

これは、ものすごく大事な機能だと考える。

なぜなら、私達が、あきらめるということが出来なければ、全員りんごの木の前で死んでいるだろう。

 

しかし、ここで分析主義は相対主義でもあるので、分析主義者は、この防衛機制を容易にバランスの問題、程度の問題に置き換えてしまう。

(私のこの行為も分析主義であるが、分析主義も内含するではなく、相対主義は何も内含しない。私のこの行為も、対象の相対する程度によるという話だ。)

 

分析主義は人間の防衛機制を発見したが、また分析主義はこれらを程度の問題と矮小化した。

私が問題だと思うのは、これらをバランスの問題や程度の問題として扱う際の、誰が閾値を決めるのかという点である。

私はこの時に、分析主義、相対主義の限界を容易に見ることができるし。彼らが、その後にどのような選択をしても、私は反対である。

 

つまり、私はこの際に、バランス論、程度論からは離れなくてはいけない。

まず、それが可能なのかという点から話したい。

私は、相対主義の対になる、絶対主義から考えてみたい。

明確な基準は物にあるとした場合、私は、現在の存在している物質に服従する。

物質が絶対の基準として、存在するとき、そこにはバランス論はない。

 

しかし、これでは分析主義や相対主義が選択する答えと、

あまり変わりがないのではないかと考えるかもしれない。

彼らのやっていること、分析主義が、絶対主義を選択するということを

かなり消極的な理由から決定している。

 

なぜ彼らが消極的なのかは、彼らは限界をちゃんと分かっているし、自分たちが管理できる絶対主義の方がまだ管理出来るという点で良いとし、

さらにこれ以上他に選択がないという、これもまた消極的な理由から選び出された結論なのである。

 

分析主義者の絶対主義を管理できるという思い込みは、確かにほとんど、他に成功例がないという、消極的な意味で成功を収めている。

 

分析主義が絶対主義を選ぶとき、管理が出来るという思い込みの時に

絶対主義を分析主義に内含させるという誤りを犯しており。

さらに、この関係は服従関係である。

つまり,これは私たちは平等ではないという事を意味する。

必然的に管理する側、管理される側に分離する。

 

そこで私はこの分析主義からの提案を完全に無視することを提案したい。

つまり分析主義からではなく、私達自身が決めて、ちゃんと納得ができる絶対主義にするか、また別の選択を選ぶ。この絶対主義は私達が毎回決めるという点で変更可能性を秘めている。

 

分析主義から→絶対主義など、分析主義の驕りである。限界が分かりきっている

思想を騙し騙し使っていくなどと、人間の理性のやることではない。

 

ここまで、分析主義のバランス論、程度論を攻撃してきた、その分析主義が

人間の防衛機制を、バランス論にするのはこれもまた、分析主義の凄まじい驕りによるものである。

 

分析主義の犯している罪はこれだけではない。

分析主義の根幹になる、分析するという行為。

つまり、分析し全てを程度論に収めて支配するというのが、彼らの犯している罪なのだ。

 

さらに、私が問題だと考えているのが、その分析対象となっている。

防衛機制が分析から逃れようと、変化するように思える点だ

防衛機制の役割は何か、もう一度改めて考えてみよう。

 

防衛機制とは、私達人間であるための機能である。

私たちは、安定した状態からの変化を嫌い、無駄なことは諦め、そして、敵からは見つからないようにする。

しかしこの防衛機制を、分析主義が分析するとき、これらは程度の問題として扱われるようになる。

つまり、私達に備わっている自然な機能すら、誰かが決める閾値によって管理される。

 

この防衛機制は変化するように見える。

つまり分析主義者に見つからないように、また、分析主義者を排除出来る環境に

人間は徐々に移動しているように思える。(防衛機制を健全に発揮できるように)

 

やはりこの時に恥ずべきは、分析主義である。

かれらは、この新たな防衛機制的な行為を見て、無知だの反知性だの、コケにするのをよく見かけるが、自分達のその消極的な思想こそ反知性である。

(保守の人たちも、彼らに混ざるが、これは防衛規制としてみれば正常な反応である。)

そして、彼らこそ責任をとらなくては行けない立場であることを気づかない点で擁護不可能である。

 

では、分析主義者はどうすればよいか?

まず、分析主義はいくらでも分析しても良いが、バランス論、程度論にならないように注意する。

そうなると頼るものがなくなってしまうが、そもそも、分析主義、相対主義には頼るものなど何も無いことを思い出す必要がある。

結果として、家族愛になるか、郷土愛に戻るなど、戻る所はたくさんある。

 

この文章は、科学を否定したいわけではない。

ただ分析主義の傲慢を否定するだけである。