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単純主義、複雑主義

 

功利的理性批判 民主主義・贈与・共同体

功利的理性批判 民主主義・贈与・共同体

 

 社会学や政治哲学をはじめとして他の社会科学が、経済学のさまざまな単純主義に対抗するのに難儀していることには変わりがない。

その理由は、これらの社会科学が多様な思想潮流や党派へと細分化されており、

それらが、経済学帝国の支配に抵抗するための最低限の統一に至ることのないまま、それぞれが戦闘状態にある王国として相対立としているところにある。

それゆえ私たちは大いに、人間学的{人類学的な}単純主義に甘んじることのない

あらゆる思考の学派に対して、その最小の公分母を見つけ出し、それを定義付け、さらには明確に共有出来るものとする必要があるのだ。

(p14)

私は単純主義であるべきではないのかもしれない。

人間には分析という能力があり、それによって、単純主義は分析され、分析主義者によって操作されてしまうからだ。(この表現は適切ではない)

 

ここで、私は人類という、おおまかな区切りは適当ではないということに気づいた。

人間の考え方は、どの時代においても、一緒であり、別々の考えを持つからだ。

異端思想の500年: グローバル思考への挑戦 (学術選書)

異端思想の500年: グローバル思考への挑戦 (学術選書)

 

ギリシア人の中には、神話を信じない人間もいたし、それに対して半信半疑の人間もいた。つまり、すでに古代ギリシアの昔から、啓蒙主義者もいたし、理神論論者もいたし、経験論者もいたし、懐疑論者もいた。

(p14)

古代から、人間の考え方は、あるカテゴリ化することができる、というのを認めなくてはならないだろう。

もし、人間の考え方が一緒であれば、何か人々は主張する必要が全くなくなるからだ。

私達の思想が完全なものであれば、私達はコミュニケーションの必要が無くなることを意味する。

無能な者たちの共同体

無能な者たちの共同体

 

中世ヨーロッパにおいて、天使たちの言語について、さまざまな議論がなされてきた。

例えば、ダンテなら天使は言葉を持たないというだろう。なぜなら、天使は完全な知性であり、他者―他の天使を含めて―の思考を全て知っているからである。

天使は互いに直接に認識しあう。ある思考が生起したなら、その瞬間に、何の遅延もなしに、他の天使は、それを知る。

(p30)

 

つまり、私達人間は有る一定のカテゴライズ出来る思想、思考を別々に持っていると定義できる。

そして、その場合に私は、ある主義思想には、必ずある弱点(この表現は適切ではない。)と呼べるものがあると定義したい。

単純主義は分析主義に。もちろん、これは対の関係ではない。

分析主義は、相対主義の申し子だろう。

もし、私が単純主義であれば、分析主義は憎悪の対象となりえる。

 

単純主義の利点は共通思考が出来やすいことである。

これは、全体主義国家主義を見れば明らかである。

共通の思考ができるというのは、共通の目標を持ちやすくする。

そして、効率化を求めるため、コミュニケーションを少なくしていくことだろう。

完全な存在へと接近していくのだ。

 

しかし、単純主義は分析主義によって、解体される。

なぜなら、分析主義によって、単純主義者の共通の企みが明かされてしまうからだ。

単純主義者の共通の企みは、単純主義者以外の抹消である。(ここの表現は適切ではない。)

そして、単純主義は、自分の環境のみ正しいと考える。

当然、ここでは、単純主義などという、普遍的な概念ではなく、

民族主義国家主義選民思想が当てはまる。

 

単純主義を擁護するつもりで書いたのに、批判する内容になってしまった。

 

単純主義者の企みの、最終到達点は、コミュニケーションを不要とする、徹底的な単純化、効率化であった。

しかし、これの問題点は明らかである。

単純化した者同士でしか、意思疎通が出来ないため、多様性を獲得することが出来ない。

しかし、この多様性というのは曖昧な語であることは認めよう。

 さらに人間がコミュニケーションを不要とすることはあり得ないので、必ず単純主義も限界を抱える。

 

複雑性とは、相対主義でもある。

相対主義相対主義によって相対されえない。

ここで図式を単純化することが出来る。

絶対主義 対 相対主義 → 分析主義

  ↓      ↓

単純主義 対 複雑主義

 

ここで絶対主義にならないために、どうすればよいかは簡単である。

単純化、効率化を求めなければいい。それしかない。

私達人間が、広く協力し合い。争いを徹底的に避けるためには、

複雑化と非効率化(当然、複雑になれば非効率なのは自明だ。)が平和の鍵である。

(ここで言う、単純化の対が複雑化というのは表現が曖昧すぎる・・・)

 

フュージョンッハ!!

人工知能の使い道

 

模倣と権力の経済学――貨幣の価値を変えよ〈思想史篇〉

模倣と権力の経済学――貨幣の価値を変えよ〈思想史篇〉

 

 人工知能といえば、私たち大衆を脅かす存在として、または希望を与える存在として、多種多様なソフィスト達から教えられることが多い。

 

私はどちらかといえば、当然といえばそうなのだが

その多種多様なソフィスト達が前提とするものに興味をもっている。

それは人工知能が体制側につくか、反体制側につくかということである。

 

今、人工知能を研究するのは国か企業が主だろう。

企業が開発すれば、国の管轄外として人工知能は君臨することになる。

しかし企業は国がなければ開発することができなかったという時点で体制側につくだろう。

アメリカではIT企業が国に反発しているが、日本では期待できない。

 

そのため、人工知能が大衆を脅かすということは、国を脅かすことと同義である。

当然、大衆と国が求めるものは違うと私は信じているが日本の知識人にこの差異を認めさせることは期待できない。

 

人工知能とやらができたとしても、国が有効に使うツールとしてだけに意味がある。

それはまったく問題ない、国がより効率的になってくれれば大衆ももっと効率よくなる。

 

しかし、日本が人工知能を使いみちが企業以外が使うとなれば

国になるが、国はいったい何に使うだろうか

 

国が一番求めるものは体制の維持に尽きる。そしてそれは国から見た大衆が求めるものでもある。

人工知能によって体制が崩れるなんていうことはあり得ない。

人工知能によって体制を強化することだろう。

 

国はあらゆる方法を使って、人を国に縛ることを使命として行動してきた。

しかしこの前提は崩れ去りつつある。

 

日本が先進国になるには、先進国の人権をある程度守らなくてはいけなくなったからだ。

そこでは個人が優先される。

ここでは当然国による体制が崩れる危険性があったが

なんとか国の体面は整えることができた。

 

統率のある集団では人が多いほどよい

体制を脅かすことのない新たな規則が作られれば更なる安定が得られる。

 

体制を守るには、体制を管理している部分を隠蔽する。

 

この本にある内容は、人は権威を模倣すると書いてある。

経済の本だがここに書いてある内容を引用している本はかなり古く

もう既に手に入らないものがある。

つまり、日本の知識人たちには大部分が吸収されている。

 

政治という権威が弱く、誰もやりたがらないような政治になっているのは

こういった点を考慮しているからではないだろうか?

 

政治を模倣するとしても馬鹿にされる点で政治家などしたくない。

そうやって体制管理部を隠蔽し、体制を維持する。

 

これに関しては問題がいろいろ出ていると考えられるが

どうやらうまくやっているようだ。

 

さて、ここで体制を維持する方法がもう一つあると考えた。

表面的に人工知能に権威を集合させるということだ。

 

人工知能を模倣したとして、人工知能を超えることはできない存在として定義する。

 

そして人工知能は管理部の存在を認識している上で大して日本の政治家と変わらないだろうが、個人がどうやっても模倣できない存在、超えることができない存在として君臨し磐石な体制を維持できる。

そして権威を集合しているためあらゆる命令を大衆に行うことが可能だ。

 

ここまで書いたが、人工知能に政治を任せるというものすごくありきたりな結論になってしまった。

私は上に書いてあることを否定する。

下に書いてあるとおりに、あくまで協同とする役目を人工知能は担う方向がいいと考えている。

jp.techcrunch.com

意思決定と合理性を読みました

 

意思決定と合理性 (ちくま学芸文庫)

意思決定と合理性 (ちくま学芸文庫)

 

いいこと書いてありそうだけど、私には消化しきれない本です。

(読みにくいような気もしますね)

記録用にここだけ抜き出そうと思ってブログを書きました。

 

(p18)

アルキメデスの現代の末裔は依然として、全世界を動かすテコを据えることのできる視点を探し求めている。

理論の領域では、ある視点を見つけ出すことの難しさは、「前提なしには結論はない」という自明の理にある。

推論の過程は記号によるインプットを入れ、アウトプットを導き出す。最初のインプットは公理であり、それ自体は論理によって導き出されたものではなく、単に経験的な観察から機能されたか、あるいはもっと単純に断定されたものでさえある。

さらに、インプットからアウトプットへの変換を生み出す諸過程(推論規則)もまた断定によって導き出されるものであって、理性の産物ではない

しかし、理性の産物ではないというのはどういう意味なんでしょうか

無意識的または、本能的であるということなんでしょうか

(p20)

第二に、「前提なしには結論はない」という原則は、規範的言明(揺るぎない、かくあるべきであることを合意している言明)に到達することはどんなことがあってもないが、

このような言明*1からもたらされるものは、それ*2もまたかくあるべきであることを含んでいる*3インプットから独立しているのである。

すでに承認されている推論規則で、記述的なインプットから規範的なアウトプットを純粋に導き出すことができるものは一つもない。

「前提なしには結論はない」ことの当然の結果として、「かくあるということだけからは、かくあらねばらなないということは導き出されない」のである。

したがって、理性が我々の目的に到達するための手段を発見するのに有効な手助けを提供するかもしれないとしても、それは目的そのものについては語るべきものを少しも持っていないのである。

(中略)

このようにして、理性は、適切なインプットあるいは前提の集合が与えられて後でのみ働くようになる。もしも理性が行為の方向を発見し、選択するのに適用されるべきものであるなら、その時には、これらのインプットは少なくともかくあらねばならないというもの、あるいは達成されるべき価値の集合、そしてかくあるというもの、あるいはそこで行為が行われるはずの世界についての事実の集合を含んでいる。

これらのかくあらねばならないというものかくあるというものとを論理的によって正当化しようとするいかなる試みも、結局は同じように公準として立てられる、新しいかくあらねばならないというものかくあるというものとにただ後戻りすることになるだけだろう。

これ非常にいいですよね。

かくあるべきもの、が成立したインプットが無いのであれば

「前提なしには結論はない」という自明の理から否定されてしまう。

 (かくあるべきことから、かくあるべきを含んでいるというのは、私を苦しめてきた内容の一つではありましたが、そのことが逆に論点の穴だったわけですね。)

 

何人たりとも、人を命令する際に論理的な理由(~べき理由)は存在しないし、理性にすら見放されている。

何らかの現象を起こさせ続けるために、その現象元の人に強制的に続けさせる理由は何もないということです。

もう少し自分の言葉にできれば、詐欺にあわなさそうでいいかもしれません。

 

 

 

*1:規範的言明

*2:規範的言明

*3:。付けました

フレームワークの神話を読んで

 

フレームワークの神話―科学と合理性の擁護 (ポイエーシス叢書)

フレームワークの神話―科学と合理性の擁護 (ポイエーシス叢書)

 

 

まだ2章までしか読んでませんが、面白いことが書いてあったので

まとめたいと思います。

一章 33ページ

 こうしたことは、機能主義的アプローチに対立するものとしての、科学への批判的アプローチの一部であり、ラマルク主義のアプローチの一部であり、あまる区主義のアプローチに対立するものとしての、ダーウィン主義、または排除主義または選択主義のアプローチの一部なのです。機能主義者またはラマルク主義者のアプローチは、外部からの教化、または環境からの教化というアイディアを用いています。しかし、批判的なアプローチまたはダーウィン主義のアプローチは、内部からの教化のみを、つまり構造それ自身の内部からの教化のみ許容します。

事実、わたくしは、構造の外側からの教化のようなものは存在しない、換言すれば、情報がわれわれの感覚器官に刻印のように押し付けられ、その情報の流れが受動的に受容されていくといった過程は存在しない、と強く主張します。

 

 

2章から、タイトルのフレームワークの神話ですね。

70p

相対主義の背後にはわたくしが「フレームワークの神話」と呼ぶものがある、というのが私の主張である。

私はこの神話を説明し、批判し、さらにこれを擁護するために用いられてきた論法についても意見を述べるつもりである。

 

相対主義者の擁護者たちは、相互理解のための規準としての現実離れとした高度なものを提出する。そしてわれわれがこれらの基準を満たすことができないとき、[相互]理解は不可能であると主張する。

これに対してわたくしは、共通の善意と多大の努力がここに注入されるならば、きわめて広範囲の理解が可能であることを主張するのである。

 

これは私を勇気付けた。

私はウィトゲンシュタインの本を読み、写像理論を知った。

そこで、たとえば、私がりんごと言って、相手が像としてバナナを思い浮かべる人がいた場合、それでは、共通のコミュニケーションの基盤がなければ話し合いなど不可能、または無益だと考えていたからだ。

しかし、この著者はそうではないと語ります。

71p

 

私は伝統を賛美するものであり、その重要性についても自覚しているが、同時に正統にとらわれないということをほとんど正統的と言ってもいいほどに信奉するものでもある。わたくしは正統というのは知識の死であると考える。

 

 

なぜなら、知識の成長は意見の不一致の存在に完全に依存しているからである。

確かに意見の不一致は争いを、そして暴力すら招くかもしれない。

そしてわたくしは暴力を憎悪するがゆえに、これをまったくの悪と考える。しかし、意見の不一致はまた討論や論証に、そして相互批判にもつながりうる。そしてこれが最も重要だと思う。

 

72p

フレームワークの神話は、以下のようなひとつの文章で述べることができる。

合理的で実りある討論は、その参加者が基本的な過程にかんする共通のフレームワークを共有しなければ、あるいは少なくとも討論のためのそのようなフレームワークにかんして合意していなければ、不可能である。

これが私が批判しようとする神話である。

 そして、この後にギリシャの批判的伝統について、語ります。

引用しませんが。

------------------------------終わり---------------------------------------------------

私はこの本を読みながら別のことを考えていた。

極論や、過激論者が存在し、駆逐される。

しかし、この討論の勝者となっている。中道という存在もまた存在しない。存在するとすれば、中道もまた、対立があり、その中道に過ぎない。その中道は結局、どちらかの論理に流れるだろう。

 

中道の存在を担保するのは、論点の対立があってこそだからだ。

そういう意味で、完全な中道は存在せず、極論はまた駆逐される。

 

曖昧な中道は、論点となっているどちらかを支持する存在であり、その中道の手はずにより我々は、選択する。

なぜか、この世界では極論は存在しない。

世界の環境に適応するという役目をわずかに異なる、中道者に任せ、変化に適応するのである。

昔はわからない。私は画期的な世界の変更には反対する。

それがすばらしい世の中になるとしても。

それによって犠牲になるのは私かもしれないからだ。

 

しかし、わからないのは。

中道者は環境に適応するために、ちゃんと行動を起こしてくれるだろうか、という点である。

中道者に志向性を与えるためにも極論者の役目は重要でと考えるが、わかり合うのが不可能である点が重要なところが、私が理性を捨てたくなる理由にもなりそうだ。

 

無能な者たちの共同体を読んで

この著者が何を言いたいのか、という点はさっぱりわからなかったのですが

ものすごく重要だと思うことが書かれていたので、本から丸写ししようと思います。

 

97ページ

 

しかし、支配することや差別することを学ぶことはできるが、

支配されることを完全に学ぶことはできない。

なぜなら、支配されることが、もしも学ばれうることだとすると、学習の結果として何がしかの自律性―機械的次元―が生じてしまうのであり、

支配者の完全な意思の元に服しているとはいいがたい状況になるからである。

 

エートスは、他者から学ぶとともに、その他者を廃棄する。

ちょうど自然言語が、他者から学ぶことしかできないにもかかわらず、

自分で自分にそれを与えることができないにもかかわらず、

習得してしまえば誰でもが、ネイティブ・スピーカーとしては平等にその言語に関して権威を持つように。支配関係にしてもそうである。

被支配者にとって支配関係を学習するということは、支配を内面化することであるが、

それは同時に、支配者としての他者を廃棄して自分自身に従うということでもある。

つまり、支配されることを学びうるとしたら、それは支配することを学びうるかぎりにおいて、支配者への同一化が可能なかぎりにおいてなのである。

したがって、収容所的な空間のように、完全な支配が目論まれるとき、そこでは、支配されることは学習されない。

なぜなら、そこで何より禁じられるのは、支配者への被支配者の同一化だからである(ジジュクが指摘するように、ここに、ナチス収容所と、被支配者の支配者への同一化が求められるスターリン主義的な収容所との違いがあるのかもしれない)。

 

だから、収容所を生き延びてしまったものを悩ませる問いは、自分は支配者に対して同一化していたのではないか、というものなのである。

エートスの破壊を生き延びたものが、振り返って自己のうちに見出すのは、そのような支配者への同一化の痕跡、いや、そのように見えるもの、つまり、支配者の表彰である(「民族浄化」」という名―これもまた表象であり、「旧ユーゴ」を自らのトラウマの源泉であるかのように見做したがる、いいかえるならば、自分たちには責任がないのだと考えたがる「先進諸国」による物質化しようという試みとも理解できる)。

 

支配は、次の支配者へと継承される。支配は学ばれうる。

被支配は学ばれない。この意味で、被支配者の伝統は存在しないのである。

およそ伝統と呼びうるのは支配者の伝統だけである。しかし、被支配者の支配者の伝統のかかわりは、先に見たように、一般に自己―他者関係と考えられる支配関係を、自己―自己関係へと置き換えるところにその特徴がある。つまり、エートスが自分自身の正を導くものとなるのは、被支配者によるこのような置き換えにおいてなのであって、支配者の伝統においてではない。

 

だが、生き延びるためには、一切のエートス的なものを断念しなければならない状況下にあっては、つまり、トラウマ的な状況にあっては、支配関係の内面化=置き換えさえ不可能になる。関係あるいは規範の何らかの内面化が可能ならば、そこには、まだ、「経験」が成り立ちうるだろう、しかし、そのようなものを一切欠いた空間では、「経験」はもはや存在しない。「経験」が、その言葉のとおり、何事かを最初から最後まで潜り抜けるをこと意味しているのだとしたら、それは「経験」ではない。

むしろ、ベンヤミンが「経験」から区別した「体験」、ただ生きられたもの、ただの生命でしかないものによってのみ受け止められることができるものしかそこにはない。

 

神経系とは、あるいは同じことだが、文化とは、刺激に対する一種の遅延作用である。

この「遅れ」をまた、ベンヤミンアウラ」と名づけたが、アウラは人間にその対象を経験するための隔たり―時間的余裕―を与えるものなのである。アウラの喪失とは、対象を経験するためのこの子の隔たりの喪失である。

いいかえるならば、それは経験の対象の喪失なのである。

それでは、それは体験の対象の出現なのであろうか。いや、そうではないだろう。

むしろ、それは「対象なるもの」の喪失であり、体験において、対象は個々ばらばらの刺激に分解され、しかも、直接神経系に接続されてしまう。

 

 

無能な者たちの共同体 118

 

歴史の始まりよりももっと古い、この地獄、そこにプロレタリアートのもっとも裸形の正を見出したのは
「地獄についての考察」のブランショであったが、それは、また、ベンヤミンの歴史に対する感覚でもあるだろう。

ブランジョがプロレタリアートと呼ぶものは、むしろ、マルクスが革命の主体からは排除しがちであった
ルンペンプロレタリアートである。
それは、反抗する能力も奪われ、そもそも自分の苦しみを「私」の経験として経験する能力も奪われた存在である。
ブランショはいう、ヘーゲルの奴隷であれば、まだ、主人をもつという幸運に恵まれている。
奴隷ならば、主人に対して反抗し、いつかはその支配を廃棄する可能性がある。
ところが、地獄に生きるプロレタリアートたちから奪われているのは、そのような可能性そのもの、
あるいは、いいかえるならば時間性なのである。
歴史の主体となるということ、何ごとかを、行為を開始するという能力、
それがそもそも奪われているのである。
地獄にいないのは主人ではない。あるいは少なくとも、主人だけではない。
地獄は主人なき奴隷の場所なのではない。むしろ不在なのは奴隷自身なのである。
そこにあるのは、奴隷なき従属である。地獄では、シーシュポスのように、ただ繰り返し、
再開することしかできない(あるいは、始めることにおいて際立った無能振りを示す―その点でスピノザとは対照的な―
ヘーゲルを思い出すべきか)。

 

--------------------------以下自分事------------------------------

これを読んで、私に中ではすべてつながりました。

そして、私のように自己を捨て、他者に率先して奴隷になろうとする態度は

何一つ経験することはく、人から学ばず、朽ちるのみということでしょう。

 

ここで、私の思想の転換をしなければ、私がどうなるかはよくわかりました。

では、どうすればよいのか

 

まぁよく言われることですが、自分を捨てない。

捨てないことのメリットがよく分からなかったのですが、今はよくわかる。

 

そして、できれば何かを支配するということでしょう。

たぶん、ここで言う支配とは、人に限らず、物に対するでもいいはずです。

最低でも奴隷なき従属はしないよう、がんばりたいと思います。

 

 

 

 

 

 

NetBeansでアプリ起動できない件

これだけで、記事書くのもどうかと思うんですけどね

 

環境

・OS:Windows7 64bit

IDE:NetBeans IDE 8.0

SDK:adt-bundle-windows-x86_64-20140321

Android:4.0.3 API-Level15

Java:1.8.0

 

解決策:

まず、Android仮想デバイス(AVD、Android Virtual Device)を立ち上げます。

その後にプロジェクトを実行します。

(プロジェクトから起動した場合は、2回同じ動作をする事になる)

 

時間がかかった原因:

①ネットで調べると「プロジェクトを実行すればAVD起動して、

アプリも起動するよ」みたいな物が多いんですが、実際起動するのは

AVDだけでアプリは起動しない。それが、アプリの不調なのか環境の

不調なのかの原因が不明だった。今も不明。