無能な者たちの共同体を読んで

この著者が何を言いたいのか、という点はさっぱりわからなかったのですが

ものすごく重要だと思うことが書かれていたので、本から丸写ししようと思います。

 

97ページ

 

しかし、支配することや差別することを学ぶことはできるが、

支配されることを完全に学ぶことはできない。

なぜなら、支配されることが、もしも学ばれうることだとすると、学習の結果として何がしかの自律性―機械的次元―が生じてしまうのであり、

支配者の完全な意思の元に服しているとはいいがたい状況になるからである。

 

エートスは、他者から学ぶとともに、その他者を廃棄する。

ちょうど自然言語が、他者から学ぶことしかできないにもかかわらず、

自分で自分にそれを与えることができないにもかかわらず、

習得してしまえば誰でもが、ネイティブ・スピーカーとしては平等にその言語に関して権威を持つように。支配関係にしてもそうである。

被支配者にとって支配関係を学習するということは、支配を内面化することであるが、

それは同時に、支配者としての他者を廃棄して自分自身に従うということでもある。

つまり、支配されることを学びうるとしたら、それは支配することを学びうるかぎりにおいて、支配者への同一化が可能なかぎりにおいてなのである。

したがって、収容所的な空間のように、完全な支配が目論まれるとき、そこでは、支配されることは学習されない。

なぜなら、そこで何より禁じられるのは、支配者への被支配者の同一化だからである(ジジュクが指摘するように、ここに、ナチス収容所と、被支配者の支配者への同一化が求められるスターリン主義的な収容所との違いがあるのかもしれない)。

 

だから、収容所を生き延びてしまったものを悩ませる問いは、自分は支配者に対して同一化していたのではないか、というものなのである。

エートスの破壊を生き延びたものが、振り返って自己のうちに見出すのは、そのような支配者への同一化の痕跡、いや、そのように見えるもの、つまり、支配者の表彰である(「民族浄化」」という名―これもまた表象であり、「旧ユーゴ」を自らのトラウマの源泉であるかのように見做したがる、いいかえるならば、自分たちには責任がないのだと考えたがる「先進諸国」による物質化しようという試みとも理解できる)。

 

支配は、次の支配者へと継承される。支配は学ばれうる。

被支配は学ばれない。この意味で、被支配者の伝統は存在しないのである。

およそ伝統と呼びうるのは支配者の伝統だけである。しかし、被支配者の支配者の伝統のかかわりは、先に見たように、一般に自己―他者関係と考えられる支配関係を、自己―自己関係へと置き換えるところにその特徴がある。つまり、エートスが自分自身の正を導くものとなるのは、被支配者によるこのような置き換えにおいてなのであって、支配者の伝統においてではない。

 

だが、生き延びるためには、一切のエートス的なものを断念しなければならない状況下にあっては、つまり、トラウマ的な状況にあっては、支配関係の内面化=置き換えさえ不可能になる。関係あるいは規範の何らかの内面化が可能ならば、そこには、まだ、「経験」が成り立ちうるだろう、しかし、そのようなものを一切欠いた空間では、「経験」はもはや存在しない。「経験」が、その言葉のとおり、何事かを最初から最後まで潜り抜けるをこと意味しているのだとしたら、それは「経験」ではない。

むしろ、ベンヤミンが「経験」から区別した「体験」、ただ生きられたもの、ただの生命でしかないものによってのみ受け止められることができるものしかそこにはない。

 

神経系とは、あるいは同じことだが、文化とは、刺激に対する一種の遅延作用である。

この「遅れ」をまた、ベンヤミンアウラ」と名づけたが、アウラは人間にその対象を経験するための隔たり―時間的余裕―を与えるものなのである。アウラの喪失とは、対象を経験するためのこの子の隔たりの喪失である。

いいかえるならば、それは経験の対象の喪失なのである。

それでは、それは体験の対象の出現なのであろうか。いや、そうではないだろう。

むしろ、それは「対象なるもの」の喪失であり、体験において、対象は個々ばらばらの刺激に分解され、しかも、直接神経系に接続されてしまう。

 

 

無能な者たちの共同体 118

 

歴史の始まりよりももっと古い、この地獄、そこにプロレタリアートのもっとも裸形の正を見出したのは
「地獄についての考察」のブランショであったが、それは、また、ベンヤミンの歴史に対する感覚でもあるだろう。

ブランジョがプロレタリアートと呼ぶものは、むしろ、マルクスが革命の主体からは排除しがちであった
ルンペンプロレタリアートである。
それは、反抗する能力も奪われ、そもそも自分の苦しみを「私」の経験として経験する能力も奪われた存在である。
ブランショはいう、ヘーゲルの奴隷であれば、まだ、主人をもつという幸運に恵まれている。
奴隷ならば、主人に対して反抗し、いつかはその支配を廃棄する可能性がある。
ところが、地獄に生きるプロレタリアートたちから奪われているのは、そのような可能性そのもの、
あるいは、いいかえるならば時間性なのである。
歴史の主体となるということ、何ごとかを、行為を開始するという能力、
それがそもそも奪われているのである。
地獄にいないのは主人ではない。あるいは少なくとも、主人だけではない。
地獄は主人なき奴隷の場所なのではない。むしろ不在なのは奴隷自身なのである。
そこにあるのは、奴隷なき従属である。地獄では、シーシュポスのように、ただ繰り返し、
再開することしかできない(あるいは、始めることにおいて際立った無能振りを示す―その点でスピノザとは対照的な―
ヘーゲルを思い出すべきか)。

 

--------------------------以下自分事------------------------------

これを読んで、私に中ではすべてつながりました。

そして、私のように自己を捨て、他者に率先して奴隷になろうとする態度は

何一つ経験することはく、人から学ばず、朽ちるのみということでしょう。

 

ここで、私の思想の転換をしなければ、私がどうなるかはよくわかりました。

では、どうすればよいのか

 

まぁよく言われることですが、自分を捨てない。

捨てないことのメリットがよく分からなかったのですが、今はよくわかる。

 

そして、できれば何かを支配するということでしょう。

たぶん、ここで言う支配とは、人に限らず、物に対するでもいいはずです。

最低でも奴隷なき従属はしないよう、がんばりたいと思います。