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意思決定と合理性を読みました

 

意思決定と合理性 (ちくま学芸文庫)

意思決定と合理性 (ちくま学芸文庫)

 

いいこと書いてありそうだけど、私には消化しきれない本です。

(読みにくいような気もしますね)

記録用にここだけ抜き出そうと思ってブログを書きました。

 

(p18)

アルキメデスの現代の末裔は依然として、全世界を動かすテコを据えることのできる視点を探し求めている。

理論の領域では、ある視点を見つけ出すことの難しさは、「前提なしには結論はない」という自明の理にある。

推論の過程は記号によるインプットを入れ、アウトプットを導き出す。最初のインプットは公理であり、それ自体は論理によって導き出されたものではなく、単に経験的な観察から機能されたか、あるいはもっと単純に断定されたものでさえある。

さらに、インプットからアウトプットへの変換を生み出す諸過程(推論規則)もまた断定によって導き出されるものであって、理性の産物ではない

しかし、理性の産物ではないというのはどういう意味なんでしょうか

無意識的または、本能的であるということなんでしょうか

(p20)

第二に、「前提なしには結論はない」という原則は、規範的言明(揺るぎない、かくあるべきであることを合意している言明)に到達することはどんなことがあってもないが、

このような言明*1からもたらされるものは、それ*2もまたかくあるべきであることを含んでいる*3インプットから独立しているのである。

すでに承認されている推論規則で、記述的なインプットから規範的なアウトプットを純粋に導き出すことができるものは一つもない。

「前提なしには結論はない」ことの当然の結果として、「かくあるということだけからは、かくあらねばらなないということは導き出されない」のである。

したがって、理性が我々の目的に到達するための手段を発見するのに有効な手助けを提供するかもしれないとしても、それは目的そのものについては語るべきものを少しも持っていないのである。

(中略)

このようにして、理性は、適切なインプットあるいは前提の集合が与えられて後でのみ働くようになる。もしも理性が行為の方向を発見し、選択するのに適用されるべきものであるなら、その時には、これらのインプットは少なくともかくあらねばならないというもの、あるいは達成されるべき価値の集合、そしてかくあるというもの、あるいはそこで行為が行われるはずの世界についての事実の集合を含んでいる。

これらのかくあらねばならないというものかくあるというものとを論理的によって正当化しようとするいかなる試みも、結局は同じように公準として立てられる、新しいかくあらねばならないというものかくあるというものとにただ後戻りすることになるだけだろう。

これ非常にいいですよね。

かくあるべきもの、が成立したインプットが無いのであれば

「前提なしには結論はない」という自明の理から否定されてしまう。

 (かくあるべきことから、かくあるべきを含んでいるというのは、私を苦しめてきた内容の一つではありましたが、そのことが逆に論点の穴だったわけですね。)

 

何人たりとも、人を命令する際に論理的な理由(~べき理由)は存在しないし、理性にすら見放されている。

何らかの現象を起こさせ続けるために、その現象元の人に強制的に続けさせる理由は何もないということです。

もう少し自分の言葉にできれば、詐欺にあわなさそうでいいかもしれません。

 

 

 

*1:規範的言明

*2:規範的言明

*3:。付けました