分析主義者の驕り

分析主義と防衛機制

 

私たちには今や当然と思われるように、人間の理性には防衛機制なるものが存在している。

例をあげると、合理化、これは私達が手に入らないものを、あれは良くない物と、対象の価値を下げるために人間は自動的に行う。

これは、ものすごく大事な機能だと考える。

なぜなら、私達が、あきらめるということが出来なければ、全員りんごの木の前で死んでいるだろう。

 

しかし、ここで分析主義は相対主義でもあるので、分析主義者は、この防衛機制を容易にバランスの問題、程度の問題に置き換えてしまう。

(私のこの行為も分析主義であるが、分析主義も内含するではなく、相対主義は何も内含しない。私のこの行為も、対象の相対する程度によるという話だ。)

 

分析主義は人間の防衛機制を発見したが、また分析主義はこれらを程度の問題と矮小化した。

私が問題だと思うのは、これらをバランスの問題や程度の問題として扱う際の、誰が閾値を決めるのかという点である。

私はこの時に、分析主義、相対主義の限界を容易に見ることができるし。彼らが、その後にどのような選択をしても、私は反対である。

 

つまり、私はこの際に、バランス論、程度論からは離れなくてはいけない。

まず、それが可能なのかという点から話したい。

私は、相対主義の対になる、絶対主義から考えてみたい。

明確な基準は物にあるとした場合、私は、現在の存在している物質に服従する。

物質が絶対の基準として、存在するとき、そこにはバランス論はない。

 

しかし、これでは分析主義や相対主義が選択する答えと、

あまり変わりがないのではないかと考えるかもしれない。

彼らのやっていること、分析主義が、絶対主義を選択するということを

かなり消極的な理由から決定している。

 

なぜ彼らが消極的なのかは、彼らは限界をちゃんと分かっているし、自分たちが管理できる絶対主義の方がまだ管理出来るという点で良いとし、

さらにこれ以上他に選択がないという、これもまた消極的な理由から選び出された結論なのである。

 

分析主義者の絶対主義を管理できるという思い込みは、確かにほとんど、他に成功例がないという、消極的な意味で成功を収めている。

 

分析主義が絶対主義を選ぶとき、管理が出来るという思い込みの時に

絶対主義を分析主義に内含させるという誤りを犯しており。

さらに、この関係は服従関係である。

つまり,これは私たちは平等ではないという事を意味する。

必然的に管理する側、管理される側に分離する。

 

そこで私はこの分析主義からの提案を完全に無視することを提案したい。

つまり分析主義からではなく、私達自身が決めて、ちゃんと納得ができる絶対主義にするか、また別の選択を選ぶ。この絶対主義は私達が毎回決めるという点で変更可能性を秘めている。

 

分析主義から→絶対主義など、分析主義の驕りである。限界が分かりきっている

思想を騙し騙し使っていくなどと、人間の理性のやることではない。

 

ここまで、分析主義のバランス論、程度論を攻撃してきた、その分析主義が

人間の防衛機制を、バランス論にするのはこれもまた、分析主義の凄まじい驕りによるものである。

 

分析主義の犯している罪はこれだけではない。

分析主義の根幹になる、分析するという行為。

つまり、分析し全てを程度論に収めて支配するというのが、彼らの犯している罪なのだ。

 

さらに、私が問題だと考えているのが、その分析対象となっている。

防衛機制が分析から逃れようと、変化するように思える点だ

防衛機制の役割は何か、もう一度改めて考えてみよう。

 

防衛機制とは、私達人間であるための機能である。

私たちは、安定した状態からの変化を嫌い、無駄なことは諦め、そして、敵からは見つからないようにする。

しかしこの防衛機制を、分析主義が分析するとき、これらは程度の問題として扱われるようになる。

つまり、私達に備わっている自然な機能すら、誰かが決める閾値によって管理される。

 

この防衛機制は変化するように見える。

つまり分析主義者に見つからないように、また、分析主義者を排除出来る環境に

人間は徐々に移動しているように思える。(防衛機制を健全に発揮できるように)

 

やはりこの時に恥ずべきは、分析主義である。

かれらは、この新たな防衛機制的な行為を見て、無知だの反知性だの、コケにするのをよく見かけるが、自分達のその消極的な思想こそ反知性である。

(保守の人たちも、彼らに混ざるが、これは防衛規制としてみれば正常な反応である。)

そして、彼らこそ責任をとらなくては行けない立場であることを気づかない点で擁護不可能である。

 

では、分析主義者はどうすればよいか?

まず、分析主義はいくらでも分析しても良いが、バランス論、程度論にならないように注意する。

そうなると頼るものがなくなってしまうが、そもそも、分析主義、相対主義には頼るものなど何も無いことを思い出す必要がある。

結果として、家族愛になるか、郷土愛に戻るなど、戻る所はたくさんある。

 

この文章は、科学を否定したいわけではない。

ただ分析主義の傲慢を否定するだけである。