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議論もしないという言葉について

ネット上では人を動かそうとあらゆる言葉を選択している

言葉によって人を動かそうとすることによる異議については別に考えたいが

今回は議論をしない事自体を問題視する言説についてだ

 

この言葉が使用される場面というのは、色んな意見があることを承知してはいる。

しかしその意見を議論させる必要性を示したい場合に使われることが多い

 

その色んな意見というのは、否定意見が優勢である場面に多い

 

私がこの言葉にすこし苛立つのは2点ある

1点目は否定が優勢の場面で議論したとして、議論によって私たちは生産的であるように規定されはしないかということにある。

生産的とはどういうことか、それは私たちは議論によってある結論をだすことが求められる、という無意識的な規定である。

 

もし、議論によって結論を出せなければ、それは議論の失敗を意味する。議論になっていないと言えることができてしまう。

私は議論の意義は認める、しかし議論によって結論を出せないことが議論の失敗(=議論をしていない)を意味してしまう現状では、議論をしていないことを攻めるのは少し卑怯ではないかと思うのだ。

議論を生産的なものだと感じているから、議論すること自体に意味をあるように考えてしまうし、議論しないことを非生産的だと考えてしまう。

私はその無意識的な規定を許すことが出来ない。

 

2点目は、議論をあまりにも信頼しすぎていることだ

議論に関する問題点はこの本が面白かった。

 

熟議が壊れるとき: 民主政と憲法解釈の統治理論

熟議が壊れるとき: 民主政と憲法解釈の統治理論

 

 

この本では人々が議論する際には、極化と脱極化という現象が起きるということが書いてある。

極化とは議論によって最初はその意見に肯定的ではなく、中立であった人も

その意見が優勢であれば肯定的に考えてしまう現象である。

脱極化は、肯定的を持っている人達のグループに否定的意見を持つ人たちが加わると

結論としての肯定的な意見が少し否定的になるという現象である。

 

議論という行為の危険性は多く、その危険性を意識していなければ

議論を操られる可能性だってあるのだ。

議論によって物事が全て上手くいくという楽観的な、しかし

それでいて脅迫的な議論の勧めを、私はよく思わない。

 

そもそも、議論を進めるまでもなく

意見を書くことは自由であり、その意見を議論するというのが自然流れではないだろうか、議論すること自体を目的にするのではないのだ。

 

これはあの有名な、手段を目的にするな、ということだろう。

 

いつか手段と目的についての内容でも記事を書いてみたい。