極端であること

何を極端であると私たちは判断するだろうか?

有るものにマイナス点を見つけた場合に、それを捨てることをは極端である。

なぜなら、そのマイナス点は修正出来る可能性を十分に有るからである。

私たちは、この世の全ては、可変であり、また相対的であることを疑っていない。

そうであるからこそ、何か問題があっても相手側を変更(可変)するか、自分側を変更(相対)するかの二択の問題に追い込まれる。

(ここで、相手側を変えるとうことは、修正するということであり、廃棄するという意味ではない。)

 

この二択以外を選ぶということは、何か絶対的なモノの信仰者であり、その進行を暴いた時、異常なものとして認識される。

通常時であれば、暴かれることはなく、ただの極端者として認識される。

(信仰と書いたが、宗教との関連性はここでは触れない。宗教が必ずしも、絶対的なものを信仰するとは限らない。)

 

全ては、可変であり、相対的であることは、現存の社会システムの安定に繋がる。

一から社会を作り直すのは手間がかかりすぎる。

そうであれば、私たちは、ありとあらゆる考え、物質、果ては人間のアイデンティティまで、いつでも変更可能であることが望ましく、また求められる。

そういった状況で、変更可能的ではない、人、モノたちはどうすれば良いだろうか?

 

モノは徹底的に分析され細分化される。

そして、何が変更不可能であることを決定しているか調べる。

それは技術発展の方向性を見れば、確認できる。

私たちは、鉄から金を作り出すことには成功しなかったが、鉄の形や、硬さなど、ある一定の変化をさせることに成功した。

 

このことは人間の持つ絶対性が一つなくなったことを意味する。

今や技術発展によって、この地球上では行けない場所はない。

移動手段で見れば、自転車、車、電車など、人間の短距離の移動の絶対性は無くなっている。(長距離での移動にはまだ困難がある。)

 

人であっても、例えば東京から大阪に行くなど、車、電車が無い時代であれば、短時間では、絶対に不可能だと言うだろう。

しかし、今や、その絶対性を持つ人間は居なくなったといえる。

 

もし、その次代に長距離の移動をしなければならないなら、身近な所に

一から作ることを求めるだろう。

私達にとって絶対性は、ある種の創造性をもたらすことになる。

社会が絶対的なものであれば、人はいちから社会を作ることになるだろう。

 

しかしそれは、あらゆる面で不幸を呼ぶことになる。

まず社会とは、人の集合である。その集合は、代替の社会が出来てしまえば廃棄されてしまう可能性が出てくるだろう。

それを防ごうと争いが起きることは間違いない。

そうなれば、何もしない状態よりも状況が悪くなったように感じるだろう。

そうなることを防ぐため、私たちは、社会から絶対性を減らすことにしたのだ。

私たちは、絶対性をほとんどなくした。

 

近代の問題点は、全て一行の矛盾で言い表せると思う。

「絶対性を持つことが不可能なことの絶対性である。」

混乱を避けるためにも、上記のことは、絶対性Xと呼ぶ。

 

私たちは、極端であることを恐れているということは、絶対的なものを恐れているということである。

しかしながらも、絶対的なものに対する尊敬や、憧れも抱いている。

例えば、人は何も絶対性を持たないものを価値の低いものとして評価する。

そういった、尊敬やあこがれがある為、人は絶対的なものを模倣する。

逆に、絶対的なものに対して、恐れがある場合は、人は絶対的なものに対して祈祷する。

 

主に混乱が生じるのは模倣の方である。

人は絶対的なものを見分けるのに難儀するだろう。

第二の絶対者がモノであれ、人であれ、模倣元を信仰する者と、模倣先を信仰する者で、争いが発生する可能性が高い。

現在の私たちは、争うことを悪としている。

この場合には、何も信仰していない人たちは、第二の絶対者を批判することになる。

 

その為、現在では、模倣という行為は潜在的にも、禁忌とされている。

(模倣という行為にあまりいいイメージは無い)

 

ここで言葉を等価で結ぼうと思う。

「極端であるということは、絶対的である」というこである。

それは、極端であるということは、唯一無二であり、変更不可能性を持っており、私達を争いに誘うことなのだ。

(その極端さが、私たちに根本的な恐れを抱かさせる場合は、私たちは、その極端さを、内的に閉じ込めようとするだろう。)

 

ここまで、私は、私たちはなぜ極端に怯えるかということを、思考してみた。

次は極端であることのメリットを考えねばなるまい。

 

私たちは明らかに、第一の極端さに、身を委ねている。

その極端さとは、絶対性Xのことである。

この極端さは、私たちに計り知れないほどに利点を与えた。

まず、争いは突発的でなければ基本的に避けられる。

私たちは平和になった。

そしてこの安定は、技術発展に貢献した。

なぜなら、この絶対性は物事を見るときの、安定した視座になるからだ。

その視座は、他の絶対性を内包する絶対性であり、他の絶対性を分析することを可能にした。

それは、相対的に見ることを可能にしたのだ。

もし、絶対性を内包できなければ、絶対性と絶対性を比較するなど不可能であろう。

 

しかし、この絶対性Xに利点があるとすれば、他の絶対性にも同質の利点を含んでいるのは当たり前だと考えた。(絶対性Xが別物であれば、絶対性を内包するのは不可能だ。)

つまり、この絶対性Xと同等の利点を持っている極端さを、容易に捨てることは愚かではないだろうか。

絶対性Xが持つ極端さは、絶対性が持つ極端さを超えたものであるというのは、間違っている。

この絶対性を内包できるということは、簡単に言えば絶対性がなければ、この絶対性Xもなくなることを意味している。

新たに出現した絶対性を、この絶対性Xは内包できる。つまり、新たな絶対性ができることによって絶対性Xは進化できるのだ。

この絶対性Xは、新たな絶対性が出現しなくなれば、人はこの絶対性Xに信仰するようになる。

その絶対性Xは、新たな絶対性が生まれなければ、発展することは無いにもかかわらずに、私たちは他の絶対性を持つことをやめる。または、新たに絶対性が発生しないように努めてしまう。

 

もちろん、絶対性Xによる安定した視座によって新たな絶対性が生まれることは十分にありえるだろう。しかし、その絶対性に対して、信仰するものがおらず、すぐ廃棄されるようならば、絶対性Xは新たな絶対性を内包することができず、発展は望めない。

 

それゆえ、絶対性Xは信仰したものが、発展性のなさに絶望し、新たな絶対性へ置き換えてしまうのだ。

 

 

そろそろ解決方法を考えたいと思う。

私たちは絶対性Xをいかに持ち続けることが出来るか?

 

1 絶対性X自体を信仰するのをやめる。

当然ながら、絶対性X自身は何者でもない。

これを維持しようとするのは、絶対性Xを殺すことである。

 

2 新たな絶対性を増やす。

絶対性を増やすことは、争いを生む。

私は犠牲になるかもしれない。しかし、そこに自由がある。

争いが生まれるからと言って、絶対性Xの管理下に、絶対性を増やしたとしてもその絶対性は、絶対性Xに既に内包されているのであまり意味を持たない。

しかし、絶対性Xによってある程度は線を引くことが出来るかもしれない。

絶対性による、他の絶対性の駆逐は絶対性Xにとって、内包できる絶対性が減るので良いことではない。

 

3 絶対性Xを発展させる。

絶対性の良し悪しは、私達の判断に委ねられた。

私たちは、絶対性Xによって、絶対性をさらに発展できる。

それは、私達がどんな未来を望むことが出来るかの選択肢を増やせることにも繋がっている。

 終わり

 

しかし、この"絶対性を持たないの集合"自身には”絶対性をもたないこと”自身は含まない。

逆も言える、絶対性の集合はそれ自身は、絶対性ではない。

 

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