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死という絶対性について

 

他者の記号学 〈新装版〉: アメリカ大陸の征服 (叢書・ウニベルシタス)

他者の記号学 〈新装版〉: アメリカ大陸の征服 (叢書・ウニベルシタス)

 

 

人は死という絶対生をいかに乗り越えたか

私たちは絶対生を前にすると思考することが出来なくなる。

明らかに絶対性は私達に害をなすだろう。

 

死は人類に共通なものであり、私たちは死に服従するしか無いのだろう。

その絶対性は組織を強固にするために使われる。

(これは死という絶対生に限らない。)

その絶対性を使用することで、組織もまた絶対的なモノになる。

 

私たちは、この絶対性からどのようにして抜け出すことが出来たか。

まずは心霊的なモノを私たちは使っている。

魂は不変なものであり、死は絶対的なものではなくなった。

これにより、死の絶対性と魂の絶対性を私たちは手に入れ、相対性を手に入れることができた。

しかし現状は魂は科学によってオカルトなモノとなり、魂は絶対的なモノではなくなった。

私たちは、この科学の時代において、魂とは別の絶対性を欲していた。

その一つは、再生産という概念である。

再生産により同一な属性を持った人たちは、死んだとしても、新たな同一属性をもった人間が生まれるということにある。

これは死者が生き返ることを意味している。

 

私たちは、ある属性を持った人間が、一定の範囲で再生産されることを知った。

しかしそれは、今の生きている人たち対しては、効力を発揮することは無い。

今の現在に生きている人たちには、死という絶対性は何も変わらずに向けられているのだ。

私達が生きている現在の世界では、死という絶対性を回避するすべはない。

 

社会のそれ自体が死という絶対性を使い、組織を絶対的なものにすることもあったが

現在は認められていない。

これによって、社会は再生産という絶対性があるゆえに相対的になり、

個人は死という絶対性から避けられず絶対的なモノとなった。

では、相対的な社会はどうのようにして組織を絶対的なものにするか。

個人が死という絶対性を持つのであれば、その個人の絶対性を社会が使えばよいというのだ。

それは個人が死という絶対性を持たないようになれば社会が崩壊することを意味している。

 

個人は社会にとって、ただ使用されるだけの道具にすぎない。

社会は個人によって成り立っているというのは、個人の集合を社会という単純なラベル付をしたものである。

ただ個人を大勢集めれば、社会が成り立つわけではない。

集団の安定には何が必要か、それは人自身ではない。

人の集合は人によって安定するなどということは誰も信じていない。

直接的か、間接的かのどちらかの、人とは別の何かによって集団、社会は安定している。

 

しかし、個人レベルで死という絶対性が無視される、思想や方法はいくつかあるのだ。

思想で言えば、輪廻思想や死という将来を考えないという意味で刹那主義などである。

思想レベルで言えば、私たちはある考えにこだわる無力さを知っており。

死という絶対性が無視されるまでにはいかないだろう。

 

現実味があるのは方法としての死という絶対性の回避である。

1つ目は、人間のち知性を持った人工知能、これは人間の永遠の生を象徴するだろう。

2つ目は、集合知である。

もし、個人という属性を持たずに、人間性を一つの個体として、その集合が一つに人間になるのであれば、その集合知は死ぬことはないだろう。

現時点で匿名性を使ったシステムはこれに近いが、どうしても彼らは個人であるということ主張してしまうし、その集団を維持するのはまた別の何かが必要だろう。

 

3つ目は、現実認識からの刹那思想の増大である。

人が簡単に死ぬ、人が未来に希望が持てないなどの現実を認識することによって

刹那主義者が増える。

人は思想の力による変革を信じてはいないが、現実を合理化する際や、保守の場合には思想を頼る。

個人は死を恐れることはなくなり、社会はまた別の絶対性を確保しなくてはいけないだろう。

 

これらのケースとして、あってはいけないのが3つ目である。

私は1つ目はありえないと思うが、2つ目による社会の変革を望む。

なぜなら現状は、社会が個人の死に頼る、不誠実な社会だ。

(維持しようとする人は、これに気がついていないか、無視している。)

社会が個人の死を利用しているということは、常に考えねばならない。