論理的正しさと正義について

論理的正しさとは、A=BならばB=Aなどといったものである。

正義とは、人を殺してはいけないなどといったものである。

 

人は正義に論理的正しさを求めるが、論理的正しさは正義の必要条件ではない。

人を殺した人間に必要な処罰を求める感情は正義感と呼べる。そのときに、論理性などあるだろうか、後付は可能だろうが、それは直感からの後付である。

 

例えば、人を殺してはいけないという論理があるとして、それが論破されれば人を殺して良いなどと、この世の中はなっているだろうか?

明らかになってはいない。

そうであれば論破に関わることは一大ニュースとして世間を騒がすはずだ。

つまり正義というのは、論理的ではないのだ。

 

それでも、人は正義には論理的正しさを求める。

それは正義のもつ効力が計り知れないものであるからだ。

私達は正義のためなら人を簡単に殺してしまう。

人を殺した人間にそれ相応の処罰というのは、その人間が死ぬことだ。

それを防ぐために論理的正しさで正義にカセを付けた。

それだけのものである。勿論、人を殺してはいけないという論理的正しさが論破されることは、人を殺せば、殺した人間も死ぬということになる。人が二人死ぬことになり、論理の重さが一人分増す。

 

私が嫌に思っているのは、カセだけのものに拘り過ぎていることだ。

私もこだわっていた。論理的正しさがなければ正義なんて無意味だと思っていた。

最近はやめようと思っている。まぁ正義を語る人間は、その論理も語るので、論理を見ずに正義の部分だけを見るようにしている。

 

しかし、これだけでは正義の危険性が解決されておらず、放置されているだけだ。

論理的正しさを突く以外に、明らかにおかしい正義を止めるすべがない。結局のところ、1人の力で止めるというのはおこがましいものなのだが。

私達は対等に会話するということができないのだろうか。

 

私は一つ解決策を持っている。

それは論理を一緒に考えてあげるということだ。

人を殺したいというなら、それが可能な論理を考えてあげ、この場合にしか人を殺せないことを論理的に考え、対話間者で同意する。

(これであれば、死刑制度などになるだろうし、突発的なものであればある程度は許容されていることは論理的に言えるだろう。勿論その、突発性にどれだけ人為性があるかは考慮しなければいけない)

ここで間違っても自分の正義をぶつけないことだ。

人を殺してはいけないなどとは言わない。そうなれば正義と正義のぶつかり合いになり、それの答えを見つけるのも論理になればいいが、そのまま正義を執行されるかもしれない。

私の考えた解決策は現実だと難しい、人は話を聞いてくれる人間を当然、仲間だと思う。

しかし、仲間などではないのだ心の中では。裏切れば簡単に怒りに変わってしまう。

私はそういう意味では、仲間などと馴れ合わないインターネットに期待している。

(今のインターネットには期待していないが)